7.30.2013

47_頭山満と玄洋社

民族主義思想の本をまとめて何冊か借りました。頭山満を大好きな人たちが執筆していて読みにくいですが、たまたま今日運転しながらずっと聴いていたvideonews.comの鈴木邦男の話と当然ながらシンクロし興味深いところがありました。
イデオロギーの(または自分という個人が持つイデオロギーの)は絶対的な根拠を持つことを運命づけられていて、そのことはヒダリであれミギであれ内ゲバとかネット右翼と思想右翼の対立なんかが、相手が倒れるまで続く妥協のない争いになったりすることにも現れていますが、その事実が端的にイデオロギーがアイデンティティを代弁しているという側面をはからずも示しています。つまり、自分の思想が、絶対の根拠に裏付けられた、よりピュアなものであり、その絶対性において劣る他者の価値を否定する(否定したいという欲求をストップするブレーキがない)という思考パターンを辿りがちである。
そもそもイデオロギーが複数あって自由選択の対象になっているという時点で、絶対的根拠がないことは明白で、イデオロギーどうしの争いは、多くの場合アイデンティティどうしの争いに帰結します。
人間が地球外生物が住む星に辿り着いて、彼らの言語が理解出来て、その社会の営みにおいて複数のグループが互いに相手を死滅させたり財産を略奪するためではなく戦っていたとしたら、人間はそれぞれのグループが敵を攻撃する論理的根拠には関心がなく、彼らが何を守るべく戦っているのかという部分が興味の対象になります。何のために戦っているのか。人間は、彼らの激しいまでのアイディンティティへの執着をそこに見ることになり、アイデンティティとは虚構の自己を守るための、絶え間ざる更新が運命付けられた、砂に描かれた水絵のようなものだという事実に至ります。
http://www.videonews.com/asx/marugeki_backnumber_pre/marugeki_641_pre.asx (preview)

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