12.11.2013

南直哉

「否定なんかしてません。ある経験が『悟り』だと証明する根拠を持つ者は誰もいないと言ってるんです。ちなみに、私が会った『悟った』という人は、たいてい傲慢になるか、誰でも言えるようなことをもったいぶって言うかのどちらかで、悟らなくてよいか、悟らないほうがよかったと思う人ばかりでしたね」

南直哉ブログwww.indai.blog.ocn.ne.jp より。

悟りの状態が直接的、間接的に記述されるとき、3通りの可能性があって、それぞれ、人間特有の価値体系に彩られた現象世界がハリボテであることを発見した状態、人間特有の価値体系によらない何らかの方法で世界を認識することが可能になった状態、神秘的な絶対価値の存在を認知した状態、またはこれと同一化した状態。なので、言葉や論理や経験の積み重ねの上に悟りがあるわけではありません。われわれはさらに、その出来事に深くコミットする必要があって、現象世界の成り立ちや、世界に対する働きかけや、世界からのフィードバックまでを含めて、自分が作り上げた幻想であることを承諾すると、必然的にその価値体系の根拠である自己(という意味・価値)が否定されることになるわけです。これを否定するのが大変な作業であり、インテンシブな修行に取り組む修行者は、その作業に取り組むわけです。否定されるのは自己という価値であり、その肉体や生命ではないといえますが、それらに対する執着(と、そもそもアイデンティティに対する執着)が消滅する段階になるので、即身仏を終着点とする修行というのは合理的です。

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