8.11.2016

バーチャルリアリティ


先月、日本で最初の大規模な仮想現実が、圧倒的な存在感をもってわれわれの人生にプラグインしました。バーチャルリアリティを受け入れることをわれわれは、反社会的だ、みたいに評価することは出来ても、社会悪だとみなすことはほぼ出来ません。なぜなら悪ではないからで、それは活字やTVがわれわれの人生に入ってきたのと同じ現象だからです。でもマイナーな問題はいくつかあって、端的には初期バージョンのポケモンGOにおいてターゲットはプレイヤーごとに用意されていて、プレイヤーどうしが奪い合うものではないのですが、これは次以降のバージョンで奪い合われるものになることが考えられ、そうなるとバーチャル空間における「価値」が仮想でない現実を浸食し始めます。仮想でない現実を「オリジナル」と呼ぶ必要が出てきます。仮想現実はどんどん進化し、われわれの脆弱性をあますところなく利用してスムーズにプラグインされるので、「オリジナル」はもはや「肌感覚としての現実感がもっとも強いもの」ではありません。

写真(静止画)を撮っていると、現実は切り取り方によって美しく優しい、つまりわれわれにとって直感的に「好ましい」ものになることに、すぐ気づきます。この切り取り方は動画にも当然有効で、それはそのまま仮想現実として選択可能な「世界」のバージョンのひとつとして用意されます。この美しく心地よい「色づけ」された世界が、とてもスムーズに受け入れられること、オリジナルの現実にさまざまなバージョンの「意味づけ」で課金可能な「色づけ」がほどこされ、スイッチを切る時間が広く漸減していくことが簡単に想像出来ます。

バーチャルリアリティは、われわれの自意識さえも選択可能なものとし、その自意識は姿形(=他者にどう見られていると、自意識が思っているか)を選択可能なものにします。天井を見上げる女性を「自分」として選択することが可能になります。


われわれは、それぞれが心地よい世界を生き、困難に満ちたオリジナルの存在は、それがオリジナルであるという文学的な意味を除いて、無価値になります。

参考①:https://goo.gl/EI1i9r (ビデオニュース 2016年7月30日、後半30分間)
参考②:https://goo.gl/9L4RO1(日本人ミュージシャンのPV)

ghostwriter