7.08.2017

環境倫理学

宮台: .. 巨大ショッピングモールになったように、便利かもしれないし、人々のニーズに応えてるかもしれないけども、自分たちがなにものであるかってことを失って、人と場所の関係が入れ替え可能なものになってしまうわけです。そのときに、そうではない参照可能な図式っていうことで、J・ベアド・キャリコットっていう米国の環境倫理学者なんですよ、こういうことをいうんですね、つまり、人々のニーズに応じた開発などはしてはいけない、環境倫理の基本を人々の義務におくとかニーズにおくとかっていうことをすると、かならず人の尊厳は奪われると。なのでなにをすればいいのかというと、場所、よくスペースからプレイスへ、っていうときのプレイスですね、場所をひとつの生きものとしてみて、ある種、パラサイトのように人間を従属物だと考えて、場所の歴史を一生懸命観察して、場所の歴史にとって、つまり場所の生育歴でもいいんですけども、場所の生きものとしての展開にとって自然なものを許容し、不自然なものは許容しないと。だから、ある大きな樹のウロがあって、ボウフラがわいて枯葉が落ちて、汚れたりしてコストがかかると .. 人々の快適とか便利とかいうことを考えると切っちゃった方がいいわけですよ。でも、代官山なら代官山で持っていた意味、代官山という生き物にとっての意味はどういうものかっていうことを分かってくると、自分にとって、これを切るのはできない、ていうふうにやっぱり思うんですよ。

神保:代官山じゃなくなっちゃう

宮台:そう。でも、そういうふうにして、一回自分の欲求を直接的に充足するっていうことを断念して、場所という主体の自然なナイテツ(?)に合わせるっていうふうに迂回をすると、実はぼくたちの尊厳は保たれるんです。なぜかっていうと、場所と自分たちの関係が、入れ替え可能なものになるからですよね。


ビデオニュースドットコム 2011年7月30日
www.videonews.com/marugeki-talk/537

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